戦国時代に興味がある人ならば、一度は「最強の武将って誰だろう?」と考えた事があるのではないでしょうか。
しかしそんなものは「最強」の定義によってどうとでも言えるものです。なのでこの記事では、
①武勇編
②知略編
③内政編
の3つに分け、更にそれぞれいくつかの部門に分けて武将をランク付けし、
最後に総合的に最強な武将を決めたいと思います。
「要するに最強の武将って誰だよ!?さっさと言え!」という人は最後まで飛ばしてください。
また、もちろん筆者の主観でランキングをつけてるので、好きな武将が載ってなくても怒らないでください。
①武勇編
・大名部門
合戦全体を指揮したときに一番強いのは誰か?
3位 朝倉宗滴
知る人ぞ知る名将。
浅井亮政という、これまた中々の武将がいるのですが、その亮政の守る小谷城の一角に5ヶ月も居座ったという話もあります。
しかしやはり一番有名なのは九頭竜川の戦いでしょう。
なんと30万人もの一向宗を相手に、宗滴はたった8千人から1万6千人ほどの軍勢で戦います。
そして夜襲を仕掛け、見事勝利してしまいます。
この時の一向宗の数や強さには諸説あるのですが、多少の幅があってもとんでもない大逆転だと言えるでしょう。
そしてその後もなんと79歳まで戦い続け、陣中で病没したと言います。
浅井家と信頼関係を築き強い同盟関係を作ると同時に、数々の戦陣訓や家訓も残しており、戦闘だけに限らない縦横無尽な活躍をしていますが、朝倉家は朝倉宗滴によって最盛期を迎えて、亡くなると共に徐々に衰退していきます。
2位 毛利元就
謀略家として有名な人物。
しかし戦の方も強く、なんと勝率では戦国大名でナンバー1だそうです。
厳島の戦いが有名ですがその他の戦いでも有利とはいえない状況から勝ちを重ねています。
どんな逆境でも事前の調略や外交で、戦略的に有利な状況を作りだす点に関しては、戦国一かもしれません。信長の野望の序盤からも信じられない様な不利な状況から勝ち続けている事が分ります
ああいう絶望的な兵力差をひっくり返してしまうのは、総大将としての芯の強さを感じます。
また勢力が大きくなってからも油断する事ない勝率の高さと合わせて2位にしてみました。
1位 上杉謙信
上杉謙信の何がすごいかと言えば、戦略的不利を戦術で逆転させてしまうところです。織田信長や毛利元就は戦略的に勝利できる状況を計画的に作るのに対して、上杉謙信は直感的とも言えそうな閃きで、戦術的勝利をもぎ取ってしまうところです。
歴史上でも源義経など戦術的天才がいますが、そういった直感型のタイプなのかもしれません。
当時の新潟は今のような米所ではなく、あまり兵士や兵糧を用意できませんでした。
それでも謙信は戦では高い勝率を誇り、勝てなかった合戦でも何とか引き分けに持ち込む事が多かったわけです。
中でも川中島の戦いは有名で、あの戦の勝敗は賛否が分かれるところですが、
少なくともあのキツツキ戦法を見破り、武田信繁や山本勘助を討ち取ったのは流石と言えます。
・指揮官部門
大名ではなく、部隊を指揮した場合に強いのは誰か!?
世間で「最強の武将」というとこの定義である場合が多いです。
3位 立花宗茂
「東国最強」と言われていた本多忠勝と並び、西国最強と言われていた武将。
実父の高橋紹運、養父の立花道雪も名将として知られています。
宗茂の最初の晴れ舞台は、やはり立花山城の戦いです。たった3千の兵と籠城し、九州統一を目前としていた4万の島津軍を相手に奮戦。
本陣を奇襲するなど遊撃戦を展開し、一時は撤退させるなどして、見事に豊臣秀吉の援軍が来るまで持ちこたえます。
豊臣政権下でも朝鮮出兵などで活躍。特に碧蹄館の戦いは有名で、敵の明軍の兵力は不明な点が多く、4万とも15万とも言われますが、とにかく宗茂はたった3千の兵で撃破してしまいます。
秀吉没後も、関ヶ原の戦いで大津城を攻略するなどの活躍を見せますが、属していた西軍が負けたため改易されてしまいました。
しかし改易後も島原の乱に参加したり・・・などと、とにかく武名を上げていくと本当にキリがありません。
まさに西国最強の武将に相応しいでしょう。
2位 本多忠勝
よくゲームなどでも「戦国最強!」と言われている武将。
武田軍に「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」と評された他、織田信長や豊臣秀吉にも評価され、徳川四天王・徳川十六神将・徳川三傑にも数えられています。
姉川の戦いで朝倉軍1万に単騎で突撃したり、三方ヶ原の戦いで3千人を率いて殿をして2万7千の武田軍を食い止めたり、小牧・長久手の戦いではたった500の兵で16万の豊臣軍の前に立ちはだかったり・・・、
と、この武将の武名も上げていくと本当にキリがありません。
しかもこれだけの戦火をくぐり抜けて、なんと戦で傷を負った事は生涯なかったそうです。
さすがに話を盛られているのではないか、と思いますが、とにかくものすごい武将であったのは確かでしょう。
1位 島津義弘
やはり1位は島津義弘以外に考えられません。
義弘の有名な武勇は2つ。一つは朝鮮出兵の泗川の戦いで、七千の兵を率いて二十万の明・朝鮮の大軍を撃破し、敵からも「鬼石曼子(グイシーマンズ)」と恐れられます。
徳川家康もこの戦いを「前代未聞の大勝利」と評価しています。
そしてもう1つは、「島津の退き口」と呼ばれる撤退戦です。
関ヶ原の戦いで、義弘は様々な事情があって不本意ながらも西軍についていました。
しかも西軍総大将の石田三成にも軽視され、戦意を失った義弘は戦いに参加しようとしませんでした。
そして小早川秀秋が寝返り、西軍が総崩れとなって石田や宇喜多など西軍主力が敗走する中、義弘も撤退を決意します。
そしてなんと後方に撤退するのではなく、前方の伊勢街道を目指して、敵軍の正面に飛び込んでいきます!
この時、義弘の兵力はたった300、敵の東軍は7万だったと言われますが、まずは前方の福島正則隊を突破し、東軍本陣の徳川家康の陣の前まで迫ったところで転進し、伊勢街道を南下していったと言います。
もちろん転進してからも、本多忠勝や赤備えの井伊直政、松平忠吉などの徳川の猛者が追撃してきましたが、義弘は「捨て奸」といって足止めの兵を配置しながら撤退し、なんとか逃げ切りました。
歴史にifは禁物だと言われますが、もし義弘が十分な兵を率いて本格参戦してた場合、歴史は大きく変わっていたのではないかと思います。
義弘も例によっていろんな武名(たとえば九州での戦いなど)がありますが、書いてくとキリがないぐらいなので割愛します。
・武将部門
武将として強かったのは誰か!?
上泉信綱や塚原卜伝、柳生宗厳、足利義輝、宮本武蔵、佐々木小次郎などの剣豪は個人の武芸ですが、このランキングは兵士を率いて部隊として強い武将を挙げてみました
3位 佐竹義重
北条家との戦で先陣に立ち一気に7人も切り伏せた、という事から「鬼義重」と呼ばれたエピソードは有名です。
他にも、同じく北条家との戦で敵の騎馬武者を叩き割ったりなどの逸話があります。
伊達政宗とも互角以上に戦った人物ですし、恐ろしい人物であったのは間違いありません。
2位 可児才蔵
宝蔵院流という槍術の流派の開祖・胤栄に直々に槍術を学んだとされる、槍の名手。
戦いでは討ち取った首を持ちきれず、笹を担いで討ち取った相手の口に笹の葉を加えさせ「笹の才蔵」と呼ばれました。
関ヶ原では17人もの首を取りました。これは東軍で一番多く、家康からも賞賛されたといいます。
1位 真田幸村
真田丸が終わってすぐなのでどうしてもこの武将を入れたかった・・・というのもありますが、感情論だけではなく、実際に武勇が盛んだったそうです。
第二次上田合戦では夜討ち朝駆けなどのゲリラ戦を主導していたそうです。
そして大阪夏の陣でも、何人の首級を挙げたのかは不明ですが、16万とも言われる徳川勢に突撃して本陣まで攻め込みます。その後押し返されて結局部隊は壊滅してしまいますが、、、
とにかく、部隊の力もあるでしょうが、個人としても十文字槍の達人だったそうで、かなり強かったのではないかと思います。
大阪夏の陣での活躍がよくピックアップされますが、それまでの石田三成や大谷吉継、直江兼続、伊達政宗とのストーリーも好きです(どこまで史実かは不明ですが・・・)。
②知略編
・軍師部門
主君の右腕として、参謀役としてもっとも優れていたのは誰か?
3位 太原雪斎
今川家を軍事・内政の両面から支えた名軍師。今川義元や徳川家康の教育係としても有名です。
そしてあの甲相駿三国同盟の立役者だと言われています。
実は甲相駿三国同盟は今川家にもっともメリットが大きい同盟で、武田家は太平洋へ出られず、北条家は上洛の道を閉ざされ、今川家だけが背後を固めて上洛に専念できるという同盟でした。
こうした今川有利な同盟を組めたのは、やはり当時は今川家がもっとも影響力が強かったという事でしょう。
信玄率いる武田家や氏康率いる北条家を相手に優位に立ち、外交でも有利な条件を押し切ってしまう手腕は流石といえます。
特に武田信玄は今川家には完全に一目置いていて、一切手を出せなかったそうです。あの山本勘助も存命中であるにも関わらずです。
ちなみに山本勘助は雪斎没後に「今川家の事、悉皆坊主(雪斎)なくてはならぬ家」とも語っています。
また、三国同盟の締結後は武田と上杉の戦いでも今川家は援軍を出してますし、間接的には上杉謙信や宇佐美定満なども翻弄していたという事でしょう。
尤も、上記に挙げた面々とどのぐらい接点があったのかは不明ですが、戦国時代でももっとも群雄割拠だった時代において、今川家を頭一つ抜けた名家に仕立て上げた手腕、功績はとてつもないと言えるでしょう。
2位 竹中半兵衛
言わずと知れた名軍師。
斎藤家の家臣時代には、十面埋伏陣と呼ばれる伏兵戦法で織田信長を翻弄したり、稲葉山城をたった16人で奪取したというエピソードがあります。
その後、秀吉に従えてからも数々の功績を挙げますが、程なくして36歳という若年で病没。
実はいうとそんなに実態がわかってない武将だそうですが、江戸時代の講談で黒田官兵衛とともに天才軍師のイメージが固まり、現在も非常に人気の高い武将です。
1位 黒田官兵衛
竹中半兵衛と同じく、豊臣秀吉の名参謀として知られる武将。
秀吉の天下統一の一番の立役者と言っていいでしょう。彼が中国大返しを進言しなければ、秀吉が天下を取っていた確率は低い。
この方もエピソードを挙げ始めるとキリのない武将ですが、中国大返し以外では小田原征伐で北条氏政を説得し、無血開城させたという話が有名でしょう。
とにかく歴史の要所で活躍しているので、官兵衛がいなければ日本の歴史は大きく変わっていたと思われます。
あと個人的に知っていて欲しいのは、官兵衛は関ヶ原の合戦のときは九州にいましたが、この時は兵を集めて大友家などを破り、ものすごい勢いで九州を進軍していた事です。
関ヶ原は小早川秀秋の寝返りで6時間で終わってしまいましたが、当初は一ヶ月は続くと予想されていました。
もし関ヶ原が予定通りに長引いて官兵衛が九州を統一していれば、家康に並ぶ勢力になるわけですし、これまた日本の歴史は大きく変わっていたでしょう。
そんなわけで、やはり飛び抜けて知略に優れた武将だと思うので1位にしました。
・謀略家部門
謀略の限りを尽くして成り上がった武将たち。
3位 斎藤道三
謀殺や毒殺、追放などを駆使し、油売から一国の城主にまで成り上がった武将。
北条早雲、松永久秀と並んで戦国三大梟雄と呼ばれるほどの謀将ですが、そもそも秀吉などに代表されるように戦国時代は成り上がりの時代ですし、暗殺の数も(2位1位の武将と比べて)そんなに多くはないので3位にしました。
娘の農姫は織田信長の正室。道三は信長と初対面で才能を見抜いたといいます。
2位 宇喜多直家
ミスター暗殺。毛利元就や尼子経久と並んで「中国三大謀将」に数えられています。10人程の人間を暗殺した武将(道三はわかってる範囲では2人程)。
またその暗殺もバラエティーに富んでおり、日本で最初に鉄砲による暗殺をしたのは直家だそうです。
暗殺の相手も娘婿や嫁の実家などであり、いかに残忍な人物であったかがよくわかります。
時代が時代とはいえ「それ、暗殺までする必要あったの?」という場合もあり、ひょっとすると殺人を快楽として楽しんでいたのかも知れません。
直家の実弟の宇喜多忠家は、兄と合うときは必ず鎖帷子という鎧のようなものを着ていたといいます。
1位 松永久秀
ミスター謀略。戦国時代の謀略家と言えば真っ先に名前が上がる人物。
松永久秀は天文2年(1533年)頃、三好家の当主である三好長慶に従えます。
その後、三好家は紆余曲折があって細川晴元や将軍足利家と敵対するも、久秀の活躍もありなんとか細川家や足利家を撃破します。
それでも長慶は将軍家を蔑ろにせず、なんとか和睦して将軍家を立てつつも自らが実権を握るのですが・・・、
ある日突然、長慶の弟の三好一存が急死します。
続いて同じく長慶の弟の三好義賢が戦死し、長慶の嫡男である三好義興も病死。
三好家の後ろ盾となってた細川氏綱(同じ細川姓でも晴元と対立して長慶に協力してた人物)も病死してしまいます。
この相次ぐ死去に恐らく久秀が絡んでいたとされています。とにかく亡くなった三好家一門の役割を久秀が引き継ぎ、久秀の権力は拡大していきます。
その後、久秀は長慶の最後の弟である安宅冬康に濡れ衣を着せて謀殺。そしてついに長慶も病死してしまいます。
長慶の死後、久秀は「三好三人衆」という三好家の有力者と手を組み、長慶の甥の三好義継を担いで実権を握ります。
そしてその後、久秀は三好三人衆と共に上洛し、なんと長慶が立てていた将軍家を襲撃。将軍・足利義輝を殺害していまいます。これがあの永禄の変です。
この時に抜け出した義輝の弟・義昭が織田信長に助けを求め、それが信長上洛のキッカケになるのですが・・・、
とにかくこの後、久秀は近畿の覇権を巡って三人衆とも対立し、勢力争いを繰り広げる事になります。
その争いの中で久秀は三人衆が陣を張っていた東大寺を奇襲、なんと東大寺大仏殿を焼き払って大仏様の首も落ちてしまいます。
後に織田信長が徳川家康に松永久秀を紹介するとき、この「三好家乗っ取り」「将軍殺害」「東大寺焼き討ち」の3つを指して「この男は常人にはできない大罪を3つも犯した」と語ったそうです。
しかしその後、三人衆との争いも久秀が劣勢となっていきますが、その時ちょうど織田信長が上洛。久秀は信長に降伏して家臣となりますが、その後なんと2度も信長を裏切り、二度目の裏切りのときに追い詰められて爆死したといいます。
とにかく、こんな風に目的の為ならとことん手段を選ばない残忍な武将がいたのも戦国時代の面白さかも知れません。
③内政編
・大名部門
もっとも政治力に長けていた大名は誰か?
3位 徳川家康
江戸の街づくりから現在の東京の反映の基礎を築いた人物。
それだけでなく官僚機構や世襲制において、江戸幕府300年の礎を築いた点は、日本の歴史上で屈指の政治家と言えそうです。
保守的なイメージからかどうしても人気で織田信長に劣りますが、現在の日本の文化や治安や徳川家康によって築かれたといっても過言ではありません。
結果論かも知れませんが、平和な日本を作る上で最適な人物というと、徳川家康が一番に挙げられそうです。
2位 北条氏康
内政家として有名な人物。
四公六民や目安箱、官僚機構の創設など、領民中心の政治をしていたようです。
なので北条家の後に関東を治める事になった徳川家康は、領民が北条家を慕い続けていたのでなかなか統治に苦労したようです。
また秀吉よりも先に検地を行ったそうです。
江戸幕府も氏康の政治を見習っている部分があり、先進的な人だったのかも知れません。
1位 織田信長
1位はやはりこの方以外に考えられません。
楽市楽座や関所の廃止など、非常に大胆な政治をしていました。
また、兵農分離によって収穫期に関係なく戦を起こせるようになったのも大きいでしょう。もちろんこれは信長の野望やっていても分る通り、尾張を始めとした豊かな土地があったからこそ、実現できた政策ですが、そのほかの豊かな土地や過去を見ても織田信長ほど合理的に取り組めていない事を見ると、織田信長がいかに非凡だったかという事がわかります。
もちろんそれゆえに保守勢力からの反発はあったのですが、その後の豊臣秀吉や徳川家康も織田信長なくして、保守勢力の力を抑えるのは難しかったと思います。
●結局、最強の武将は誰か?
さて、最強の武将なんて定義によって何とでも言えるんだ、という事を説明してきましたが、
その上で、あえて最強の武将を選ぶなら織田信長だろうなと思います。やはり信長の野望の主人公だけに、日本の戦国時代は織田信長抜きには語れません。
なぜなら織田信長がいないと戦国時代は終わらなかったからです。
というのも、戦国大名が支配した領地を石高にしてみると、
武田信玄は130万石、上杉謙信は145万石、毛利元就は120万石程度だそうです。
しかし織田信長が支配した領地は、なんと600万石から800万石だと言われています。
秀吉や家康はそれ以上の領地を手にしましたが(直轄地という意味では少ないかも)、
秀吉は信長の地盤を引き継いだし、家康も秀吉の地盤を引き継いだわけで、
やはり信長が存在しなければ秀吉や家康の天下も無かったでしょう。
また、信長の凄いところは、戦は始まる前の段階で決まるというのを理解していた事です。
長篠の戦いが象徴的ですが、これでもかというぐらい準備を徹底して戦を起こす。
凄いのは、信長は若い頃に奇襲で今川義元に大逆転を果たしたのに、それでもその経験に酔わなかったところです(もっとも桶狭間でも入念に準備をしていましたが・・・)。
また、秀吉や蒲生氏郷の才能を見抜いて重用したり、他にも柴田勝家や丹羽長秀、滝川一益、前田利家などを適材適所に配置するトップとしての手腕もすごいです。信長の野望でも織田家に多くの優秀な武将がいるのは、織田信長の身分を問わない人材登用と、その育成方法が卓越していたからだと思います。
配下武将の裏切りが多いとも言われますが、あれだけ短期間に大きくなって急激に配下を増やしている上に、革新的な考えで保守的な勢力が付いていけなかったことを考えると、それも已む得ない結果の様に思えます。
その点、徳川家康はそもそも譜代の臣下が多かったのと、織田信長より保守的に進めても天下統一出来たので、同じ土俵では比べられない状況だったと思います。
そんなわけで、この記事では織田信長が最強の武将であると結論づけたいと思います。
長々と語りましたが、最後まで読んでくださった方に感謝!
まだまだ面白い武将がたくさんいるので随時追記していきたいと思います。