江戸時代の気になる風俗産業

花魁から夜鷹など江戸時代の気になる風俗産業

吉原」、「花魁」、「太夫」という言葉は聞いた事がある人も多いでしょう。しかし、江戸時代の遊女がみんな花魁のように華やかかというと、もちろんそうではありません。美しい部分だけがメディアでは取り上げられていますが、本当はどんなところだったのか。今回は「江戸時代の吉原」と、「江戸時代の性風俗事情」をご紹介します!

庶民はまず手が出せない桁違いの「花魁」「太夫」

遊女の最高位である「花魁」や「太夫」は、一晩お相手していただく値段も数十万円と最高額。
しかも、数十万円とは「その場に行けた人」が支払うお値段です。一度立ち寄ってスグに・・・なんてことは無く、最低でも3回は通わなければなりませんでしたし、せっかく訪ねても花魁や太夫の機嫌が悪ければ簡単に袖にされてしまいます。
花魁に関連するお店などでも、派手に遊ばなければ認められません。従って、花魁の元へ行くためには現在のお金で400万円~600万円程度は必要だったとされています。

庶民の年収が簡単に飛んでしまう世界なので、庶民の手には入らない高嶺の花。
ただ、どんなにお金を積んでも平気でフッてしまえるのが花魁。豪商や大名、殿様だろうが花魁の前では関係無いのです。

庶民が奮発して楽しむ「局見世(つぼねみせ)」

豪商や大名ではない庶民が、給金を握り締めて通うのが「局見世」。一般的な売春宿で、長屋形式に長く続いています。
そんな長屋の中の遊女をチェックし、気に入った娘を買っていくのです。
局見世は主に、今日はちょっと奮発しちゃうぞ、って庶民の旦那衆でいつも賑わっていたようです。
値段設定や遊女の質は店によって違っており、自由に設定することが可能。ちょっと高めの局見世は「金見世」というとか。

悲しき売春婦「夜鷹(よたか)」

夜鷹 江戸時代の風俗

夜鷹 江戸時代の風俗

時代劇でも時々取り上げられる夜鷹。現在で言う「立ちんぼ」スタイルで、夜道を歩く男性に声を掛け安価で売春を行います。
安い夜鷹だと、一回の値段が蕎麦一杯程度。安い局見世などで働いていた遊女が、加齢や病気で夜鷹に落ちてしまうケースもあり、性病などにかかっていた率は高かったとされています。
しかも、河原や林の中などに持参したゴザをひいて男性の相手を・・・ということなのでかなり大変だった職業です。
年齢層は10代から70代、と幅広く活動範囲も全国的でした。

現代日本では風俗営業に関する決まりから立ちんぼはいませんが、古今東西・世界各国でお手軽な風俗は立ちんぼですね。

 

賑やかなストリップ劇場「意和戸(いわと)」

ほったて小屋の中で女性が陰部をあらわにする現代でいう所のストリップ小屋「意和戸」。
女郎上がりの女性が豪華な打掛をまとい、男性客の前に出てきて脱いだり性行為を見せたり。男性客は「それ吹け、やれ吹け」「それ突け、やれ突け」と場面に合わせて掛け声を発するのです。

ちなみに「意和戸」というのは、日本神話で隠れた天照大神に出てきてもらおうと、アメノウズメノミコトが脱ぎながら踊った「天岩戸(あまのいわと)」から。
「女(あま)の意和戸」、といことみたいです。

様々な階級や種類のあった江戸時代の遊女たち。
吉原だけではなく、普通の街中などでも売春で生計を建てている女性たちは多く存在していました。
東海道などの有名街道の宿場の宿や飯屋には「飯盛娘」や「宿場女郎」という遊女が待機しており、旅人の疲れを癒す存在でした。参勤交代の時は特に忙しかったとか。

古今東西問わず、風俗産業が消えた時代・国家はありません。

 

江戸時代の求人方法?人身売買で連れてこられた少女!?

華やかな身なりでキラキラしていますが、遊女のほとんどは借金のカタなどとして妓楼に売られた女性です。例をあげると、

  • 農村・漁村などの貧しい家庭の親が、生活難のため娘を妓楼に売る
  • 貧しい下級武士の家の親が生活難のため娘を妓楼に売る
  • 不況や事業の失敗などで没落した商家の親が借金のカタに娘を妓楼に売る
  • 悪い男にダマされて若い娘が妓楼に売られる

など。平たくいえば人身売買です。

表向きは幕府も人身売買を禁じていたため、「遊女は妓楼で働く奉公人」ということになっていましたが、それはあくまで建前。

実際には、女衒(ぜげん)と呼ばれる“人買い”に親や親類、時には夫が娘や妻を売り渡していました。江戸市中の場合は女衒を使わず直接、妓楼に親らが娘を売ることもありました。

江戸時代の農村のようす。江戸から遠い農村・漁村の場合、女衒が家々を周って少女たちを買ったそう
身売りされる年齢と金額はどれくらいだったかといいますと、幼女の場合は7~8歳(時には5~6歳)、もう少し大きくても10代前後の少女だったそう。

金額に関しては、出自によりピンキリだったようですが、農村部での場合、3~5両(現在のおよそ30~50万円)で幼女を女衒が買ったという記録があります。下級武士の場合だと18両(およそ180万円)で娘が買われたという記録も。

いずれにせよ、現代人からみると理解しがたい話ですが、当時の事情は知るよしもなく、安易には批判できません。

彼女たちは「吉原へ行けば毎日白いおまんまが食べられるし、きれいな着物が着られるよ」と女衒に言われたり、「これも親孝行だと思って堪忍しておくれ……」と親たちに言われたりしながら、泣く泣く吉原へと売られていきました。

吉原へ売られてくる女性のなかには、すでに遊女として働いていた玄人(プロ)の女性たちもいました

前述したように、吉原は幕府公認の遊郭です。でも江戸には吉原以外にも「岡場所」と呼ばれた売春エリアがあり、幕府非公認つまり非合法の遊女(私娼)が色を売っていました。


有名な岡場所のひとつ深川。深川の遊女は「辰巳芸者」とも呼ばれ“粋”を売りとし、「芸は売るが色は売らぬ」と謳っていました。しかし、実際には色を売る遊女も

岡場所は非公認なわけですから、幕府は何度も私娼の取締りを行っており、その際に摘発された私娼たちがセリにかけられ吉原の妓楼へ売り渡されたのです。

彼女たちは「奴女郎(やっこじょろう)」と呼ばれ吉原の遊女のなかでも軽蔑されたそうですが、なかにはトップクラスの遊女に昇りつめる女性もいました。

勝山は江戸時代初期の吉原で絶大な人気を誇った遊女で、彼女の考案した髪型は「勝山髷(かつやままげ)」と呼ばれ大流行しました。

この勝山も、吉原の遊女になる前は「湯女(ゆな)」という色も売る湯屋の従業員で、私娼摘発により吉原へ連れてこられたのですが、美貌と才覚をもって破格の出世を成し遂げたのです。

花魁の下で“遊女のあり方”を学ぶ下積み時代

幕府の取締りなどで吉原へ連れてこられた私娼は非公認とはいえすでに遊女ですから、吉原に来たらすぐにお客をとるようになりました。

一方、女衒が仕入れてきた幼女たちはすぐに客をとらされることはなく、まず「禿」としてスタートしました。読み方は「はげ」ではありません、「かむろ」です。

ちなみに、名前は「さくら」と「もみじ」。これは本名ではなく妓楼から与えられた名前で、禿の名前はこのような平仮名3文字が多かったとか。

禿はだいたい15歳くらいまでの少女で、先輩である花魁の身の回りのお世話や雑用をしながら、吉原や妓楼のしきたりを学び、“未来の遊女”としてしつけられました。また、遊女の必須教養として読み書きなども教わりました。

ちなみに、吉原にはこんな原則がありました。

「年季は最長10年、27歳(数えで28歳)で年季明け」

つまり、最長10年間妓楼で働き、27歳になったら晴れて自由の身になれる、というわけです。まぁ、これはあくまで“原則”であり、スムーズに年季明けを迎えるのはなかなか困難でした。そのあたりはのちほど。

さらに、お客をとらない禿時代は年季のうちに入らないので、たとえば7歳で妓楼に来た女の子が17歳でお客をとり始めたとすると、実際には20年という長い時を吉原という狭い世界で過ごさなければなりませんでした。

禿も16歳くらいになると次のステップに移ります。見習い遊女の「新造(しんぞう)」です。

右が花魁、左が新造です。新造になったばかりの女性なのか、どことなく幼く体つきも華奢な感じに描かれています。

新造になったらすぐにお客をとるわけではなく、花魁について身の回りの世話をしながらお客のあしらい方など“遊女のテクニック”を学びました。お客をとる前の新造は特に「振袖新造」といいます。

新造はお客をとる前、ある儀式を行わねばなりませんでした。それは、初体験、つまり処女の喪失です。

これは「水揚げ(みずあげ)」と呼ばれるもので、禿から妓楼にいる少女や、未婚の女性など処女に対して行われました。

相手をするのは、妓楼が依頼したその道に長けた40歳ぐらいの金持ちの男性だったそう。乱暴だったり下手だったりして、性行為に対する恐怖心や嫌悪感を抱かせないよう人選には気を遣ったようです。

こうして一人前の遊女とされた女性たちは、その後、毎日、お客の相手をすることになります。

ひとくちに遊女といっても、「花魁」と呼ばれるトップクラスの遊女を頂点にした厳然たるヒエラルキーがあり、待遇も雲泥の差がありました

たとえば、部屋をとっても、花魁は豪華な個室を与えられましたが、禿や新造といった見習い・下級遊女は大部屋に雑魚寝でした。

それだけでなく、新造はお客を接客するのも「廻し部屋(まわしべや)」と呼ばれる共用の大部屋で、屏風1枚で仕切られただけの寝床で性行為を行いました。

これは相部屋のようすです。左側の男女は痴話げんかの真っ最中でしょうか。なんだかたいへんなことになっています。

屏風1枚の仕切りなんてあってないようなもの、行為中の音や声なんかも当然、丸聞こえだったことでしょう。

食事に関しても、売れっ子遊女となってお客がたくさんつけば、豪華な出前を注文することもできましたが、妓楼で出される食事はかなり質素。

自由になるお金のない禿や新造のなかには空腹をしのぐため宴会の時のお客が残した料理をこっそりキープしておいて翌日食べたりした者もいたとか。

身売りの際、女衒が「白いおまんまがたらふく食べられるよ」という常套句はどうやら嘘っぱちだったようです。

とにかくこうした恵まれない待遇から脱したければ出世するしかありませんでした。そのため、遊女たちは芸を磨き、お客を悦ばせるためのテクニックを磨きました。そして、ただひたすらに年季が明けるのを待ち望んだのです。

年季を待たずに自由になれる方法――身請け

遊女の毎日はかなり過酷。

お客と性行為するのは午前2時頃で、朝6時頃にお客を送り出し、2度寝ののち10時頃に起きて、昼頃には昼の営業が始まり、その後はずっと宴席にはべったり、お客の相手をしました。

そのため多くの遊女は万年寝不足ぎみだったとか。ひと晩に相手をする客もひとりとは限らず、複数の男性と性行為することもあったといいますから、本当に肉体的にも精神的にもたいへんだったことでしょう。

正式な休みも正月と盆の年2日だけで、生理の時もまともに休ませてもらえなかったとか。

さらに、脱走防止のため吉原からの外出は禁止されており、まさに遊女たちは“カゴのなかの鳥”でした。

また、自身が売られた時の代金は自分の借金となっていただけでなく、自分の着物や髪飾り、化粧代なども自腹、さらに花魁の場合は、付き人である禿や振袖新造の着物代なども自腹で支払わなければならなかったので、借金はまったく減りませんでした。働いても働いても楽にならず……です。

とはいえ、正月には餅つきをするなど季節のイベントもありましたし、貧農の娘のままなら一生着ることのできない豪華な着物や髪飾りをつけることもできたうえ、茶道や和歌など諸芸を学ぶこともできました。

しかし、年季とされた10年という年月はとてつもなく長い。このつらい10年が過ぎるのを待つ前に吉原から自由になる方法がひとつだけありました。それは……

金持ちのお客さんにお金を払ってもらって妓楼から出してもらうこと

これを「身請(みうけ)」といいますが、莫大なお金が必要でした。

身請代 = その遊女の身代金 + 遊女のこれまでの借金 + これから稼ぐ予定だったお金 + 妓楼のスタッフや遊女の妹分らへのご祝儀 + 盛大な送別会の宴会料 + 雑費など

必要とされた身請金は下級クラスの遊女でも40~50両(現在の金額でおよそ400~500万円)、中流クラスの遊女なら少なくとも100両(およそ1000万円)、トップクラスの花魁ともなれば1000両(およそ1億円)以上もの身請金を払ったという例もあるほどでした。

余談ですが、江戸時代の文学界を代表する作家のなかで2度も遊女を身請し、妻に迎えた人物がいました。

名を山東京伝。

京伝は数々のヒット作を生み出した当時の大人気作家というだけでなく、浮世絵も手がけるわ、煙草入れや手ぬぐいのデザインも手がけるわ、といったマルチクリエーターでした。

身請された遊女は妾となることが多かったのですが、京伝は2度とも「妻」として迎えています(一度目の妻は死別)。そこに京伝の遊女への本気といいますか真摯といいますか、そういった気持ちが伺える気がします。