戦国時代からある老舗飲食店?
美味しい物が大好きな日本人。季節を活かした食事からデザートまで、和食はもちろん洋食、中華など街は美味しい食べ物屋さんで溢れています。しかも値段も手ごろで気軽に食べに行けるお店がたくさん!日本の外食産業は、国の経済の中でも大きな位置を占める主要産業のひとつです。ところで、日本には長い歴史を持った神社仏閣など古いものがたくさんありますが、歴史ある飲食店というものも存在します。中には歴史上の人物に縁のある店や、古典芸能の舞台になっているお店も。それでは日本で現在も営業している「超」老舗飲食店5軒をご紹介します。
目次
一文字屋 和助: 1000年創業
「この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることもなしと思へば」と、我が世の春を詠った藤原道長公。記録によるとこれは西暦1018年、今から約1000年前の出来事です。京都の茶屋・一文字屋和助の創業は、それより古い西暦1000年。なんと平安時代から続く老舗中の老舗です。ここで供されるのはこんがりと香ばしく焼かれたあぶり餅とお茶のみ。竹串の先に刺された親指ほどのサイズの小さなお餅は、1人前13本。もち米を蒸すところから焼いて白みそときな粉をまぶすところまで、全て人の手で作られています。保存料は一切使わずその日に作ったものをその日のうちに売る方針のため、一文字屋和助のあぶり餅を食そうと思ったら、ここへ来るしかありません。平安の昔から、文字通り人の手から手へと受け継がれてきた技術ともてなしの心。京都を訪れる時には絶対に立ち寄りたいお店です。
一文字屋 和助
住所:京都府京都市北区紫野今宮町69
つるべすし弥助: 創業800年有余年
遥か昔、修験道の聖地として信仰の中心にあった吉野(奈良県)。その吉野の玄関口として栄えた下市町にあるのが、創業800年以上の歴史を誇る、つるべすし弥助。つるべすしとは酢でしめた鮎の腹にすし飯を詰めたもので、その姿が井戸のつるべに似ていたことがその名の由来です。つるべすし弥助は、江戸時代に歌舞伎の演目「義経千本桜」の舞台になったことで日本中にその名前を知られるようになりました。現在では鮎の押し寿司を始めとした、吉野川の天然鮎を使った料理店として営業しており、名だたる著名人にも愛される名店として知られています。
つるべすし弥助
住所:奈良県吉野郡下市町下市533
電話:0747-52-0008
本家 尾張屋: 1465年創業
こちらも京都の老舗、そば処の本家尾張屋。京都のお菓子屋として室町時代の1465年に創業されました。それから時は流れて江戸時代中期、京都の禅寺ではそば粉を練ったものを麺状に切った「蕎麦きり」が盛んに食されるようになり、その製造は「練る・伸ばす・切る」の技術に長けた菓子屋に外注されるようになりました。これをきっかけに尾張屋も蕎麦屋となり、後には御所に蕎麦を納めることのできる名店にまで発展しました。ただしその間も創業から続くお菓子作りへの情熱は忘れず、今でも蕎麦粉を使った蕎麦餅などのお菓子を製造・販売する菓子処としても営業しています。
本家 尾張屋
住所:京都市中京区車屋町通二条下る
電話: 075-231-3446
山ばな 平八茶屋: 天正年間(1573年 – 1592年)創業
ここ山ばな平八茶屋は、安土桃山時代の天正年間に京都から北へ走る若狭街道沿いの茶屋として営業していました。当時は街道を行く旅人たちに、お茶と麦飯とろろ汁を提供していたと言われています。いつしか旅館としてのサービスも行うようになり、現在では懐石料理や、伝統的な儀式料理である本膳料理、鍋物などの美味しい料理旅館として営業しています。もちろん、創業時からの麦飯とろろ汁も健在!過去ここを訪れたことのある人物には、近代日本の礎を築いた一人である岩倉具視、明治の文豪・夏目漱石など、そうそうたる人物たちが名を連ねています。他の京都の老舗と同じく、戦国時代の終わりから江戸時代、そして明治時代と、日本の歴史の激動の時代を全て見てきた歴史ある老舗料理旅館です。
山ばな 平八茶屋
住所:京都府京都市左京区山端川岸町8-1
電話:075-781-5008
元祖丁子屋: 1596年創業
12世紀から宿場町「鞠子宿」として栄えた静岡市駿河区丸子にある、とろろ汁のお店元祖丁子屋。この辺りは古くから自然薯(とろろ芋)の産地として知られ、東海道を行く旅人たちは茶屋でとろろ汁を食べ精力を付けていました。当時の茶屋の様子は歌川広重の浮世絵「東海道五十三次」にも描かれています。元祖丁子屋の創業は江戸時代に入る少し前の1596年。以来、宿場の茶屋として旅人にとろろ汁を出し続け、現在でも厳選された素材を生かしたとろろ御膳が人気を集め続けています。店舗入り口の外観は存在感のある茅葺の木造建築。歌川広重の浮世絵を再現するために、昭和45年に築300年ほどの古い建物を移築しました。店の前に植えられた梅とあんずの木まで絵と同じ!店には歴史資料館も併設され、まるで江戸時代にタイムスリップしたかのような気分になります。
元祖丁子屋
住所:静岡県静岡市駿河区丸子7-10-10
電話:054-258-1066
寿司は江戸時代から?
私たち日本人にとって、お寿司は国民食とも言える食べ物です。集まりやお祭りの時は豪華な握り寿司を奮発したり、手軽に済ませたいときにはコンビニやスーパーのお寿司コーナーで買ったり、ごちそうでもファストフードでもある、とても簡便な食事の一つと言えますね。
寿司には、“江戸前寿司”などの文字が書かれ、江戸風の柄をあしらった器に入れられるなど、“江戸”が強調される事が多いです。それもそのはず、ファストフードとしての握り寿司の生まれ故郷は、江戸に存在していたからです。
元祖は華屋与兵衛のサビ入り寿司!
握り寿司が今のようなスタイルになったのは文政年間(1818~1831)と言われ、その原型を作ったのが両国回向院前に店を構えていた華屋与兵衛という料理人。彼は、自分の店で扱う寿司にワサビを使った味付けを始め、握りの先駆者ともいわれています。
華屋のように立派な店舗を構え、職人を多く抱えた寿司屋は主に富裕層を相手にした高級店でしたが、庶民の胃袋を支えたのは屋台で食べる寿司でした。
江戸時代の寿司はトロお断り
それでは、江戸の庶民に愛好された屋台の寿司はどのようなものだったのでしょうか。
シャリは粕酢ないしは赤酢を使った白米飯で、少し赤みを帯びていました。具も、煮た貝やエビ、酢でしめたコハダ、湯引きして漬けにしたマグロ、卵焼きなど味付けがされた加工品が主であり、冷蔵技術が無い時代ならではの工夫がされていたのです。腐敗防止と風味づけを兼ねてワサビが用いられたのは、言うまでもありません。
今では高級ネタとなっているトロは、腐りやすいのと油っぽさが当時では嫌われていたことから、寿司ネタとしては扱われずにネギマ鍋にしたりと、二束三文の下魚として扱われていました。
江戸時代の寿司は大きい
江戸時代の寿司の特色は、何と言ってもその大きさでした。一口で食べられる今の握り寿司と比較すれば2~4倍近いシャリにネタを乗せており、具を乗せたおにぎりのような形だったのです。後に、その大きさでは食べにくいと言うことで二つに切って供したのが、二貫ずつ出す寿司のはじまりと言われています。
寿司の人気が高まったのには、江戸市民に刺身などの鮮魚料理が好まれたこともありますが、職人や棒手振りなどの零細商人が多かったのも理由のひとつです。肉体労働に従事する彼らは、手早く空腹を満たすボリュームのある食事を求めていました。
また、野暮を嫌って粋なものが好きな江戸っ子には、手間取らずに食事が出来る握り寿司はピッタリの食べ物でした。おまけに、比較的安価にお腹を満たすことができたので、とても重宝されていました。
現代まで受け継がれる、屋台寿司の心意気
近代化を迎えて以降、握り寿司は肉食文化の導入や第二次世界大戦などにより、何度か断絶の危機を迎えますが、多くの職人と愛好者に支えられて現代まで受け継がれてきました。屋台で売られる寿司の姿は消えましたが、安価で美味しいという利点は回転寿司やパック寿司に受け継がれ、今も日本人の胃袋を満たし続けているのです。
まとめ
正直、老舗飲食店といっても100年や200年の話だろうと予想していましたが、1番最初のあぶり餅のお店に至っては1000年以上の歴史を持っているなんて本当に驚きですね!その他のお店もゆうに400年を超えるものばかり。今回は最も歴史の古い5軒をご紹介しましたが、そのうち3軒が京都のお店。さすがは歴史と伝統の街です。こんなにも長きに渡って伝統の味を守り続けてきたお店で、普遍的な人の営みに想いを馳せながら食事をするのもいいものですね。