秀頼は誰の子供?
庶民から天下人にまで出世した、日本史上最強の成り上がり――豊臣秀吉。
大の女好きでもある秀吉、最大の不幸は子供に恵まれなかったことでしょう。
もし秀吉に歳相応の跡取りが生まれ、育っていれば徳川幕府へスムーズに権力が移らず、日本の歴史は大きく変わっていた可能性があります。
秀吉の不妊症の疑いがあることを、歴史学者の服部英雄九大名誉教授は、その著書『河原ノ者・非人・秀吉』でこう断言しています。
長男の鶴松はもちろんのこと、次男・豊臣秀頼の父親も秀吉ではない――。
こんな歴史の秘密がつい最近まで封印されていたのです。
まずは該当の部分から引用させていただきますと。
最初に確認しておきたいが、秀頼の父親が秀吉である確率は、医学的にいえば限りなくゼロなのである。
正確な数はともかくとして、秀吉が常人に比すれば、はるかに多くの女性と愛し合うことができたことは間違いない。けれど、こうした環境にもかかわらず、秀吉は一人の子も授からなかった。
この二人の組み合わせのみに、それほど都合よく子どもができるものなのか。秘密があるとみるべきだろう。
数多くの側室がいた秀吉。
実際に子供を産んだのは浅井三姉妹の長女・淀殿だけです。
過去に他の男性との間に子供を産んだ女性も側室となっておりますが、彼女らにはその後、秀吉との間に宿した形跡はありません。また、秀吉との離別後、別の男性との間に子供を授かった女性もおります。
淀殿との間にだけ子供が生まれるというのは極めて不自然なのですね。
となると湧いてくる疑念がありましょう。
豊臣家の跡取りであり、淀殿の息子でもある秀頼は、一体誰の子なのか?と。
「家」の維持を重んじて行われた公認の浮気
かつての日本では、こうしたケースは決して稀ではなく、その際にはイベントで各家の子宝を分けあっていました。
舞台は夜祭です。
「家」の維持が大事だった昔は、祭りなどで体外受精の場を求めたのです。
いってみればダンナ公認で、浮気してしまうというわけ。神社や寺のお祭りなので、神様仏様、つまり社会の公認でもありました。
その際に、重要なのは、驚くべきことに複数と交わることでした。
再び本書から引用させていただきますと。
秀吉自身がかかわり、秀吉が命令して、生物学的には秀吉の子ではない子を、茶々に産ませた。それならば不義でも密通でもない。断罪もされない。
子ができない夫婦に、どのようにして子ができるのか。
民俗事例でいえば参籠(さんろう)がある。参籠の場がしばしば男女交情の場になったと指摘している。
どうしても子に恵まれない夫婦にも、いよいよのときは子が授かる仕組み・可能性が民間につくられていた。通夜参籠と同じ装置が設定された。聚楽城または大坂城の城内持仏堂が参籠堂となったか。宗教者が関与したと想定する。
宗教的陶酔をつくり出すプロは僧侶ないし陰陽師だった。
(服部前掲書)
なぜ複数と交わるのか?
それは後のトラブルを回避するためでした。
父親が特定の誰かと分かってしまうと、後に「◯◯は私の子供だ」あるいは「◯◯はアイツの子供だから私に養育義務はない」などと問題になってしまう。
そのため「複数の無名の男性」が対象になったのです。
淀君は、こうしたイベントにより、2度、(表向きは)秀吉の子を産むことになりますね。
朝鮮出兵のとき淀君が秀吉に内緒で祈祷を
1回目は秀吉公認でした。
城内のお堂で、たくさんの男たちと淀殿がナゾの祈祷をしていており、そこが受胎の場だと考えられています。
この時、生まれた男の子「鶴松」は夭折してしまいます。
秀吉は、これでもう実子は諦めて、養子を育てようと決めました。
ところが、です。
朝鮮出兵のため九州へ行っているうちに、淀殿は勝手に「祈祷」をしてしまい、またもやご懐妊してしまったのです。
これにはさすがの秀吉もキレ、彼女に辛辣な手紙を送りつけました。
「おめでとう(棒読み)。お前の乳で育てなさい」
これのどこがキレているのか?
昔、地位があった女性は、自身の母乳で育てるなんてことは一切せず、他人に任せていました。
母乳で育てるというのは、身分の低い人間のすること。
実際、彼女が1人目を産んだときは、母乳で育てるどころか、手元から子供を取られて、直接育ててすらいないのです。
それゆえ、自身の母乳をあげるということは、淀殿にとっては、つらーいお仕置きとなる――ハズだったのですが。
関係者は殺害された?
これが思わぬ方向に転がっていきます。
彼女は自分の乳をあげて育てているうちに、異常な愛情が芽生えてしまい、秀頼を完全なマザコンへと育ててしまったというのです。
そして、母子は子離れ、親離れできずについに滅亡してしまう。
徳川家康との事前の折衝で、豊臣家が存続するチャンスは何度もありましたが、ついにそうはならずに母子ともども滅亡への道を突き進んでしまったのでした。
ちなみに、秀頼の実父はどうなったのか?
秀吉留守中に起きた不祥事に関して、唱門師(陰陽師)が追放された。
これがこの先、数年に及ぶ唱門師大弾圧の始まりである。
唱門師はシャーマンとして心理を操り、トランス状態を招くことができ、霊的処術が可能だった。いかがわしい魔術もあったかもしれない。(粛清された*注)女たちは大坂城内の全員ではない。「若公ノ御袋家中女房衆」すなわち淀殿周辺にいる女房らだと明記している。
唱門師追放の翌日からは淀殿付き女房の処刑が開始された。(服部前掲書)
淀殿の懐妊後、秀吉は、彼女の側近や「祈祷」にかかわったとみられる陰陽師らを徹底的に殺戮してしまいました。
一晩(あるいは数晩?)の営みのために、この世から消されてしまったのです。
現代なら様々な不妊治療があり相談できますので、膨大な金額を掛けて治療された可能性もありますが、当時の事情を考えると仕方ないのかもですね・・・